口日田のタルパ/オカルト日記

タルパやオカルト等について、心の赴くまま書き散らします。Twitterもやってます。@konichiden

科学への反乱

 科学万能主義者というのがいる。
 あらゆる問題は科学の力により解決できると信じている集団であるが、そんなのはまさしく自分の無知を曝し無学を大声で喧伝しているに等しい主義主張であると気付いたほうが良い。

 科学は確かに事象の究明に関しては、つまり因果の因と果を解明するための道具としては全く惚れ惚れするほどの力を持っている。
 だが、近代以降発展した科学は普遍的であり、再現可能である事を絶対の条件に置かれた。つまり科学は個人的見地と人格性、私的現実等を放棄して初めて科学たりえるという極めて公正な道具なのだ。
 けれども公正なる事が良いこととは限らない。それは情状酌量を求められぬ裁判のようなもので、どこまでも無機質で突き放すような冷たさを感じさせる。
 何故恋人は死んだのか、という疑問に関して、素晴らしくも科学は物質的な答えを用意できる。例えば恋人は相手の運転手が酒気を帯びて酩酊していた為に交通事故死したのだ、などと。しかし恋人の死という出来事が持つ意義や意味などといったものは何なのかという質問には一切応じてはくれない。
 科学が用意するのはあくまで客観的な立ち位置から観察出来る事柄のみで、主観にずかずかと立ち入って講釈を垂れるほどの図々しさはない。何故なら科学は公正であらねばならぬ学問だからだ。主観や精神ほど公正から遠いものはないのである。
 このような問題は、主観によっては解決出来る。人はそれを試練として悲しみを克服しようとしたり、運命だったなどといって諦念を抱いたりする。それはすべて人間の精神自体による救済である。主観的な疑問に関しては主観的に解決するしかない。科学にはこの不公平さがない。あまりに厳密過ぎるのだ。

 また、科学には運命を見通す力がない。
 もちろん確率論的に未来の出来事を論ずる事はできるかもしれないが、サイコロを振って六が出る可能性は六分の一などという話は全く役に立たないという場面は多々ある。
 むしろ我々は次サイコロを振った際に何が出るかというまさにその事を問うているのであって、「う〜ん、全部の目に六分の一ずつ出る可能性があるよ!」と言われてもハァそうですかという感想しか抱けぬのである。六が出る可能性が六分の一であろうが、三が出てしまえば六はまるっきり消滅してしまう。我々の人生が(おそらく)一度きりであるように、確率論にも無限回のトライアンドエラーの果に出てくる六分の一ではなく、一を以て表記すべきではないか。
 カオス理論というものによると我々は如何なる機械を用いても完全に未来を予測するのは不可能であるらしいし、これに関しては科学の至らぬ領域と言うしかなかろう。

 さらには――これが最も重要な問題かもしれないが――科学には神を否定するだけの力がない。
 無神論者は頻繁に「科学的に考えて神は居ない」などと言うが、本当にそうだろうか? 確かに神は居ないかもしれないが、それは科学によっても何者によっても観測し得ない領域なのである。
 例え全宇宙どころか宇宙の外側に至るまでのすべての範囲を探索しおよそ神と呼ぶにふさわしい実在が観測出来なかったとしても、有神論者が「神は死後の世界に存在している故、我々には観測できないのである」と言ってしまえば話はそこでお終いだ。神というのはそういう存在なのだ。
 或いはそもそも神は概念的な、つまり普遍的な存在かもしれない。もしかすると我々の言うところの物理法則が神そのものである可能性すらあるのだ。それを否定する手段を科学は持っちゃいない。
 また、心霊に関しても同じことが言える。仮に一億枚の心霊写真が偽物だと発覚したとしても、それは心霊を否定する根拠にはならない。それは『少なくともカメラにより撮られる心霊はおよそ存在しないと考えられる』というだけの事で、しかも一億一枚目の心霊写真が本物ではないという事の保証にはならない。
 要するに科学は不在のもの、観測不能なものに関しては実在不在を判定できないのである。いや、観測可能なもののみの実在を認める現代の科学なら不在と判断するかもしれないが、それは妥協案である。消極的賛成というもので、否定する材料も肯定する材料もないからとりあえずないものとして扱っておく、しかし実際に不在が証明されたわけではない、という賛成である。

 やはり科学は万能ではないのだ。
 科学は都合の良い道具ではあるかもしれないが、それですべての事象を判断出来るなどという考えは大間違いである。
 僕はそんな科学自体あまり好きじゃないが、こんな欠陥品を万能であるとして崇め奉る科学万能主義者の方が大嫌いだ。
 だいいち世界というのは極めて主観的なものである。何人もこの空間は夢の中の世界ではないと断言することは出来ない。我々の見る世界自体が主観的なのに、あらゆる事柄に客観性や普遍性を以て対応しようとする姿勢の方が間違いではないか。
 僕は、そう思う。