口日田のタルパ/オカルト日記

タルパやオカルト等について、心の赴くまま書き散らします。Twitterもやってます。@konichiden

我はオカルトを信ずる者也

 僕はオカルトを信じている!
 などと声高々に宣言すれば、世間の皆様からは冷笑か奇異の視線を投げかけられるのみだと思う。
 実際、近代以降発展した科学、とりわけ自然科学はそれ以外の権威の一切を否定するほどの権力と実力を備えているし、自然科学の恩恵にどっぷり肩まで浸かって暮らしている我々現代人ならオカルトなどという体系的に整備されている学問なのかすら判らぬ謎の教義には眉をひそめるのが普通だろう。
 しかし、実のところ、世の中にはオカルトが満ち満ちているのである。

 例えばあなたは自らの身体は自らの意思により動かしていると考えているだろうか? もしそうだとしたら、その考えは全くもって非科学的であると断ぜざるを得ない。
 まず最初に断っておきたいのだが、我々の“意識”や“感覚”なるものはどこまでも主観的な現象である。我々は人間は全員自分と同じような感覚を持って生活していると信じ切っているものの、実際のところは分からないのだ。
 もしかするとあなたの見る赤色は僕にとっての紫色かもしれない。或いはあなたの感じる苦痛はあなたの両親の感じる安楽かもしれない。
 それは違う! と、どうして自信を持って反駁できよう? 我々が感じる喜びや悲しみなど、所詮は個人的な感覚に過ぎないというのに。例え脳に発生する電気信号のパターンが同じでも、結果生じる主観的感覚が同じだなんて限らないのに。
 我々はこの感覚を他者に伝える事ができない。言葉で伝えられるのは所詮言葉のみで、しかも言葉は本来個人的体験であるはずの記憶を普遍的に伝える為に発達してきた。それは即ち主体を破壊するも同じことなのだ。
 そしてまた、この主観的感覚は観測する事ができない。脳の電気信号のパターンを読み取れたとしてもそこに出てくるのはあくまで電気信号のパターンに過ぎず、我々の感じるこの主体的感覚は全く持って観測し得ないのである。
 そして、現代科学においては観測できないとは即ち存在しないのと同義である。そんな存在しないも同然のものが観測可能な実在である肉体を動かすと考えるなど、これこそオカルト的思考ではないか?
 また、仮に何らかの手段を以て主体的感覚の存在が実証されたとしても、これはあくまで副次的に発生するものに過ぎないという事になろう。何故なら目が壊れればものが見えなくなり鼓膜が破れれば音が聞こえなくなる以上、主体的感覚は肉体に追随するものであるはずだからである。
 という事は、主体的感覚の実在証明は単に物質の働きにより主観が発生するという全く以て当然の回答しか導き出さないのではないか。
 上の理由より“あなたの精神は単にそこにあるのみであり、肉体はあなたのココロの動きに関わりなく物理法則によって動いている原子の塊に過ぎない”という結論が導かれる訳だが、これを受け入れられようか。
 僕は受け入れられない。というより受け入れたくない。そもそも全く意思を持たない原子の塊同士が「愛してるよ」「私も」なんて具合で良い感じに空気を振動させ、さらにはいい雰囲気を出しつつ腕を絡め合ったりするかぁ? という疑念もあるし、厳密な普遍的価値を求めるあまり個人的感覚を切り捨ててしまった近代科学への不信感もある。
 と言う訳で、僕は限定的にではあるが近代科学に反旗を翻しオカルトを奉る事にしたのだ。