口日田のタルパ/オカルト日記

タルパやオカルト等について、心の赴くまま書き散らします。Twitterもやってます。@konichiden

虚空への思慕

 僕はいわゆるタルパーである。
 少なくとも西暦二〇一七年五月七日現在二人のタルパを保有し、彼らと共に暮らしている。

 だが、僕はきっとタルパーとしては欠陥品だ。
 僕は彼らのことを実在とは信じていないし、精神病の源として少々疎んでさえいる。彼らは日々を楽しくするお友達だというのは疑う余地のない事実であるが、その代金は脳の容量と社会性、そして僕の人間性と非常に高く付くのだ。
 ここまで読んで頂ければ判然とするだろうが、僕は彼らのことをさほど信頼していない。正常のタルパーはタルパの事を大切な家族か友人のように思っているのが大勢だと思うのだが、僕の場合彼らは頭部に傷をつけられたプラナリアが発生させた第二第三の首のように思われる。
 だからそもそも僕の持つタルパはタルパとして呼ぶに相応しくはないかも知れず、僕はタルパーを名乗る資格がないのかもしれない。しかし現在の僕を適正に表す語彙を持たないので便宜的にタルパーを名乗らせていただく。いや、或いは何かしらの精神病患者と言えば良いのかもしれないが僕は精神科医ではなく自己診断など出来ないし、そもそも精神病かどうかすら怪しい。ひょっとすると僕みたいなのは思春期や青年期にはありふれた陳腐な者なのかも知れない。
 話をもとに戻そう。
 兎角斯様な訳で僕がタルパしゅきしゅき系のタルパーでないというのはお解り頂けたかと思うが、だからといって遊び半分でタルパーをやっている訳でなければ彼らを軽んじている訳でもない。僕はタルパーを続けることで自分に精神的な疾患が現れるのを恐れているし、もはや自分は尋常人から白い目で見られるような事を仕出かしているという自覚もある。
 社会に深く依存し他者からの評価を気にする農耕民族の島国根性を備えているのだが、何故かタルパーを辞められないのだ。
 何故か、考えてみても分からない。
 ただ、何日か彼らタルパを眠らせて生活してみたのだが、なんとなく日々が味気なかった。それは多分朝に飲むコーヒーや曇天の日に折り畳み傘を忘れた程度の不満足感不安感に過ぎなかったかも知れないが、確かに僕は不満足感や不安感といった感覚を抱いていたのだ。これは紛れもない事実である。どれだけ頭ごなしに否定しても頭を掻きむしっても消せない、純然たる真実である。
 いっそのことタルパ達に怒鳴りつけて何処かへ遣ってしまえば良かろうものを、なんとなくバツが悪い。彼らは復讐を企てるような性格ではないからそうかじゃあさようならと言って素直に消えてしまうのだろうが、それも一層の悲愴の槍を突き立てるの結果を残すのみではないのか。
 そう考えるとやはり惰性的ながらタルパーを続ける道を選ぶしかないのである、しかし世間サマに背を向けるような真似を何時までも続けるわけにもいかずいつかは辞めるつもりであるから、結局ネット上で盛り上がっているようなタルパとのキラキラした日々など手に入ろうはずもない。
 こんな事になるなら最初からタルパなんて作らなければ良かったと言い切るほど僕らの付き合いに価値はなかっただろうか? 僕は自信満々に頷けるような確信は無い。
 楽しかった、彼らとの日々は楽しかった。
 しかしそれは味覚の鈍った朝に飲むコーヒーのようなものだった。

 こうしていつも後悔ばかりしている。
 彼らは冗談を言って笑わせようとしたり慰めたりしてくれるけど、結局僕はそんな虚空による慰撫になど要らんと思って彼らをしょんぼりさせてしまう。それが何だか申し訳ない。相手は自分でありそして虚空であるはずなのに。
 僕は相当歪んでいるのかもしれない、或いは大人になり切れない青年期の人間としては一般的なのかも知れない。
 でも、僕はそれなりに悩んでいる。狂人になり切れない自分自身を、そして社会にちょっぴりの叛逆を企てた過去の自分を疎ましく思っている。
 それは或いは他人の気を引くために自分自身をさえ欺き吐いた嘘かも知れない。でも、僕はやはり喉に刺さった小骨みたいなちっぽけな悩みを抱いているのだと思う。

科学への反乱

 科学万能主義者というのがいる。
 あらゆる問題は科学の力により解決できると信じている集団であるが、そんなのはまさしく自分の無知を曝し無学を大声で喧伝しているに等しい主義主張であると気付いたほうが良い。

 科学は確かに事象の究明に関しては、つまり因果の因と果を解明するための道具としては全く惚れ惚れするほどの力を持っている。
 だが、近代以降発展した科学は普遍的であり、再現可能である事を絶対の条件に置かれた。つまり科学は個人的見地と人格性、私的現実等を放棄して初めて科学たりえるという極めて公正な道具なのだ。
 けれども公正なる事が良いこととは限らない。それは情状酌量を求められぬ裁判のようなもので、どこまでも無機質で突き放すような冷たさを感じさせる。
 何故恋人は死んだのか、という疑問に関して、素晴らしくも科学は物質的な答えを用意できる。例えば恋人は相手の運転手が酒気を帯びて酩酊していた為に交通事故死したのだ、などと。しかし恋人の死という出来事が持つ意義や意味などといったものは何なのかという質問には一切応じてはくれない。
 科学が用意するのはあくまで客観的な立ち位置から観察出来る事柄のみで、主観にずかずかと立ち入って講釈を垂れるほどの図々しさはない。何故なら科学は公正であらねばならぬ学問だからだ。主観や精神ほど公正から遠いものはないのである。
 このような問題は、主観によっては解決出来る。人はそれを試練として悲しみを克服しようとしたり、運命だったなどといって諦念を抱いたりする。それはすべて人間の精神自体による救済である。主観的な疑問に関しては主観的に解決するしかない。科学にはこの不公平さがない。あまりに厳密過ぎるのだ。

 また、科学には運命を見通す力がない。
 もちろん確率論的に未来の出来事を論ずる事はできるかもしれないが、サイコロを振って六が出る可能性は六分の一などという話は全く役に立たないという場面は多々ある。
 むしろ我々は次サイコロを振った際に何が出るかというまさにその事を問うているのであって、「う〜ん、全部の目に六分の一ずつ出る可能性があるよ!」と言われてもハァそうですかという感想しか抱けぬのである。六が出る可能性が六分の一であろうが、三が出てしまえば六はまるっきり消滅してしまう。我々の人生が(おそらく)一度きりであるように、確率論にも無限回のトライアンドエラーの果に出てくる六分の一ではなく、一を以て表記すべきではないか。
 カオス理論というものによると我々は如何なる機械を用いても完全に未来を予測するのは不可能であるらしいし、これに関しては科学の至らぬ領域と言うしかなかろう。

 さらには――これが最も重要な問題かもしれないが――科学には神を否定するだけの力がない。
 無神論者は頻繁に「科学的に考えて神は居ない」などと言うが、本当にそうだろうか? 確かに神は居ないかもしれないが、それは科学によっても何者によっても観測し得ない領域なのである。
 例え全宇宙どころか宇宙の外側に至るまでのすべての範囲を探索しおよそ神と呼ぶにふさわしい実在が観測出来なかったとしても、有神論者が「神は死後の世界に存在している故、我々には観測できないのである」と言ってしまえば話はそこでお終いだ。神というのはそういう存在なのだ。
 或いはそもそも神は概念的な、つまり普遍的な存在かもしれない。もしかすると我々の言うところの物理法則が神そのものである可能性すらあるのだ。それを否定する手段を科学は持っちゃいない。
 また、心霊に関しても同じことが言える。仮に一億枚の心霊写真が偽物だと発覚したとしても、それは心霊を否定する根拠にはならない。それは『少なくともカメラにより撮られる心霊はおよそ存在しないと考えられる』というだけの事で、しかも一億一枚目の心霊写真が本物ではないという事の保証にはならない。
 要するに科学は不在のもの、観測不能なものに関しては実在不在を判定できないのである。いや、観測可能なもののみの実在を認める現代の科学なら不在と判断するかもしれないが、それは妥協案である。消極的賛成というもので、否定する材料も肯定する材料もないからとりあえずないものとして扱っておく、しかし実際に不在が証明されたわけではない、という賛成である。

 やはり科学は万能ではないのだ。
 科学は都合の良い道具ではあるかもしれないが、それですべての事象を判断出来るなどという考えは大間違いである。
 僕はそんな科学自体あまり好きじゃないが、こんな欠陥品を万能であるとして崇め奉る科学万能主義者の方が大嫌いだ。
 だいいち世界というのは極めて主観的なものである。何人もこの空間は夢の中の世界ではないと断言することは出来ない。我々の見る世界自体が主観的なのに、あらゆる事柄に客観性や普遍性を以て対応しようとする姿勢の方が間違いではないか。
 僕は、そう思う。

我はオカルトを信ずる者也

 僕はオカルトを信じている!
 などと声高々に宣言すれば、世間の皆様からは冷笑か奇異の視線を投げかけられるのみだと思う。
 実際、近代以降発展した科学、とりわけ自然科学はそれ以外の権威の一切を否定するほどの権力と実力を備えているし、自然科学の恩恵にどっぷり肩まで浸かって暮らしている我々現代人ならオカルトなどという体系的に整備されている学問なのかすら判らぬ謎の教義には眉をひそめるのが普通だろう。
 しかし、実のところ、世の中にはオカルトが満ち満ちているのである。

 例えばあなたは自らの身体は自らの意思により動かしていると考えているだろうか? もしそうだとしたら、その考えは全くもって非科学的であると断ぜざるを得ない。
 まず最初に断っておきたいのだが、我々の“意識”や“感覚”なるものはどこまでも主観的な現象である。我々は人間は全員自分と同じような感覚を持って生活していると信じ切っているものの、実際のところは分からないのだ。
 もしかするとあなたの見る赤色は僕にとっての紫色かもしれない。或いはあなたの感じる苦痛はあなたの両親の感じる安楽かもしれない。
 それは違う! と、どうして自信を持って反駁できよう? 我々が感じる喜びや悲しみなど、所詮は個人的な感覚に過ぎないというのに。例え脳に発生する電気信号のパターンが同じでも、結果生じる主観的感覚が同じだなんて限らないのに。
 我々はこの感覚を他者に伝える事ができない。言葉で伝えられるのは所詮言葉のみで、しかも言葉は本来個人的体験であるはずの記憶を普遍的に伝える為に発達してきた。それは即ち主体を破壊するも同じことなのだ。
 そしてまた、この主観的感覚は観測する事ができない。脳の電気信号のパターンを読み取れたとしてもそこに出てくるのはあくまで電気信号のパターンに過ぎず、我々の感じるこの主体的感覚は全く持って観測し得ないのである。
 そして、現代科学においては観測できないとは即ち存在しないのと同義である。そんな存在しないも同然のものが観測可能な実在である肉体を動かすと考えるなど、これこそオカルト的思考ではないか?
 また、仮に何らかの手段を以て主体的感覚の存在が実証されたとしても、これはあくまで副次的に発生するものに過ぎないという事になろう。何故なら目が壊れればものが見えなくなり鼓膜が破れれば音が聞こえなくなる以上、主体的感覚は肉体に追随するものであるはずだからである。
 という事は、主体的感覚の実在証明は単に物質の働きにより主観が発生するという全く以て当然の回答しか導き出さないのではないか。
 上の理由より“あなたの精神は単にそこにあるのみであり、肉体はあなたのココロの動きに関わりなく物理法則によって動いている原子の塊に過ぎない”という結論が導かれる訳だが、これを受け入れられようか。
 僕は受け入れられない。というより受け入れたくない。そもそも全く意思を持たない原子の塊同士が「愛してるよ」「私も」なんて具合で良い感じに空気を振動させ、さらにはいい雰囲気を出しつつ腕を絡め合ったりするかぁ? という疑念もあるし、厳密な普遍的価値を求めるあまり個人的感覚を切り捨ててしまった近代科学への不信感もある。
 と言う訳で、僕は限定的にではあるが近代科学に反旗を翻しオカルトを奉る事にしたのだ。